山東市の朝来山の帰り、山城としては岡城址と肩を並べる城壁の竹田城址を見学してきました。
 
  
 
 竹田城址と言えば私の生まれ故郷にも竹田市に竹田城址があり、竹田市の竹田城址は正確には岡城址で西南の役で落城するまで岡藩主が支配していました。
 現在は滝廉太郎作の(荒城の月)のモデルの城として親しまれ、山城の周囲を稲葉川と白滝川が堀の役目を果たし、山東市の標高差には少し及ばないものの城壁は高いところでは30mを超す城郭の配置は城壁を含め山東市の竹田城址によく似ている。
 山東市の竹田城は但馬の大名山名宋全が築き、山城の輪郭が虎が臥してるように見えるところから別名虎臥城と呼ばれ、現在では円山川から立ち上がる川霧によって霞むことから天空の城として名を馳せ多くの観光客が訪れている。

  
 
 山東市の竹田城最後の城主は赤松広秀で、関が原の合戦では西軍に属し、敗戦後徳川のある大名の取り計らいで改易を逃れ徳川に従事したが、1600年城下の大火で責を負い、徳川家康によって切腹を命じられ1600年10月28日廃城になったと記されている。
 竹田城山門駐車場に車を止め、標識に従って城跡へ踏み出すと、先ほど登った朝来山以上の急階段が待ちうけ、一気に汗が噴出す、標高354mの山城は思ったより手ごわい、本丸まで700mは竹田城址に竹田城址登山口と記載されてた意味が判った気がした。
 
  
 
 竹田城址は豊後竹田城址と違って全体に芝生が植え込まれて入ることである、城址からの眺めは360度の展望が開け、周囲の展望を堪能しながら故郷の竹田城址に思いを巡らす、昼食休憩を終えたあと、寺町通りを見学し温泉に浸るため「よふど温泉極楽湯」に立ち寄り帰路に着く。
 

 
 あとがき、山南市の竹田城址の標高は354mで城壁は穴太流石積、廃城は1600年で山名宋全の築城、廃城の城主は赤松広秀、別名(虎臥城【とらふすじょう】)、豊後竹田市の岡城は標高325mで城壁は穴太流石積で武者返し、廃城は1874年大分県に売り渡し(廃藩置県)で緒方三郎惟栄(これよし)の築城、廃城の城主は13代中川氏、別名(臥牛城【がぎゅうじょう】)、どちらも難攻不落の城と言われている。
 
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