この団体の左が神楽舞台 テントの向こう側に宮津留の方々が居る 西小学校の体育館と役委員のテント 小原の方々 |
六種の祭り旗 各集落が何を奉納するのかを示している |
私の生まれた宮津留は獅子舞を奉納 合川村当時の中心地 |
私が生まれた68年前は合川村と呼ばれていたが、私が小学校2年生の時町村合併が行われ、合川村は清川村と合併し、以降私の出身はと聞かれれば、今では平成の市町村合併で豊後大野市清川町になっているが、私は愛情をこめて今でも大分県清川村と答えている。 生まれ故郷が時の政府によって人口変化とは言え、慣れ親しんできた地名を簡単に捨てられるものではない、町村合併によって清川村となったときの人口は4万人程いた清川村ですが、今では3000人までに人口現象が進んでいる、その大きな原因は尾平鉱山の閉鎖と祖母・傾山を含む国家事業の林業閉鎖が大きな要件の一つで、今では私のように仕事を求めて都会へと行き、行った先で定着するか県内に帰ってきても大分か別府に居を構えるなど、過疎化した清川村に居を構える人は稀にしかいない。 六種(むくさ)とは私が生まれた宮津留を含む小原を中心にした6っつの集落の集合体で、私が小学校6年生頃までは各集落ごとに秋祭りが行われていたが、先程述べたように時代が進むにつけ各集落の人口も減少して単独集落では祭りも行えなくなり、今では六種が一つになり、かろうじて祭りを維持していると宮津留の同級生が言っていたことが同郷である私の心に堪えたが、今では私の生家は二度の村道拡張によって跡形もなく、今では生家の周りにある田畑だけになっている。 六種合同秋祭りを知ったのは祭りの前日畑の手入れと野菜の収穫に行ったとき、いつも世話になっている方が、明日西小学校跡地で秋祭りの獅子舞と神楽があるので是非来て昔を懐かしんでと言われたが、当日午前中は病院に予約を入れていたので、午後になると言って、病院の診察が終わって別府から60数キロ離れた清川村西小学校跡へ。 西小学校に着いたときは獅子舞は終わり、神楽が第一の演目が終わったところでしたが、私が卒業した廃校の小学校跡をつくづく眺め、当時の面影に思いを走らせたが、過疎化の波には勝てず、私が卒業した小学校・中学校・高校は全て廃校となりました。 神楽では演目ごとに演目の説明があるのですが、今回は演目の説明は抜きにして写真だけ載せましたので見て頂ければと思います。 六種の集落は「宮津留」「小原」「泉園」「石原」「丸小野」と合併で緒方町になった「馬背畑」だったと思うが今から60年前のことで確信はないが、私は泉園の隣の集落宮津留で生まれた、当時の戸数は21戸数ではなかったかと思う(小学生の頃)平均で一戸数当たり約7名位かな? |
第一の演目 五方礼始 |
東西南北と土の神の登場 平穏を願っての舞 |
東西南北と土の神が国の平穏を願って五方と土に礼を述べる |
第二の演目 柴引 |
柴引の八百万の神が登場 柴取りに行く神の登場 |
このあと車引きの方と柴引をする 柴の取り合いをする |
子供を抱いて舞を舞う 子供が泣いてもお母さんの写真撮影に応える |
怖い面の神に抱かれて泣き叫ぶ 抱かれている姿の写真ポーズ |
役員室で馳走になる 柴を引き抜いたと・・・ |
無事柴を岩戸に届けたことへのお礼 |
第三の演目 平国 |
世の中が平穏になったことへの礼の舞 |
世の中が平穏になったと報告 |
第四の演目 五穀舞 |
須佐之男命と大気都比売神の登場 |
大気都比売神が尻・鼻・口・陰部・耳などから食べ物を出して八百万の神々に与えるのを見て汚いやつ切り殺す場面 |
須佐之男命と八百万の神が餅撒きに |
食料の種を頂き礼を述べる八百万の神々 |
第五の演目 太平楽 |
喜びを祝う神々の登場 |
世の中が平穏になった喜びの舞 |
第六の演目 高御座 |
神の登場と案内役の神々の登場 |
高御座までの案内役を申し付ける神と承知する神々 案内役が決まり引き上げる神 |
神を高御座まで案内役としてチャロの登場 |
チャロの案内役が決まる 喜び合う神々 |
第七の演目 綱切 |
八岐大蛇退治に見立てた俵をまえに観衆に俵の能書きを披露する |
大蛇に見立てた俵を切る瞬間と切り落とされた俵 |
第八の演目 八雲払い 遅くなったので大蛇を退治する前に引き上げた |
櫛名田姫と手名椎と足名椎が登場しての舞 |
須佐之男命の登場 なぜ泣いているのかを聞くと櫛名田姫が大蛇に飲み込まれるのを嘆いていると |
櫛名田姫を嫁にくれるなら大蛇を退治すると言う 嫁への承諾をする櫛名田姫 |
この時点で別府へと引き上げるが、この先の展開は他の私の神楽のページでご覧ください。 |