古希(古稀)…70歳 、中国の詩人「杜甫」が「人生七十古来稀なり」と詠ったのが「古希」の始まりで、当時70歳まで生きている人は稀で、還暦よりも長く生きている長寿の祝いとして詠まれています。還暦は赤色が祝いの色としているが、古希は紫の色が祝いの色とされている。 その「古希」の祝いが清川西中学校学年同窓会として別府市で開催されたので参加してまいりました。 私が小学校に入学したときは学年で約100名ほどいたが、私が2年生の時町村合併があり、それまでは合川小学校と名乗っていたが、町村合併で相川村は清川村と合併したが、数か所の集落が隣町の緒方町と合併した為、学年人数が少し減り約70名ほどになった。 当時の清川村は林業と尾平銅山の影響で村民は4万人を超える人口を有していた清川村で、私は清川西小学校から西中学校へと進学し、私は中学を卒業すると竹田商業へと進学したが、小学校入学時に360余名いた学校も過疎化の波に?まれ、十数年前に小学校と中学校は廃校となり、進学した竹田商業高校も廃校となって私が卒業した学校は全て廃校となってしまった。 清川西中学校を卒業と同時に同級生はそれぞれの高校や就職へと進み、高校卒業後はそれどれの地域へ就職したが、大半の方が県内にとどまったが、私のように関西へ、関東、中部へと生活を拠点化したが、今回「古希祝い」に中部、福岡、長崎などから数十年ぶりに帰省したという方もおられ、一堂に会した時は自分の近況を語り、友達だった人が参加してないことで、その人の近況を聞いたりと大いに話が花を咲かせました。 私は5年前企業定年と同時に清川村(町)にある(私は清川町より清川村の方が気に入っているので、今でも清川村で通している)田畑やお墓の守として関西から別府市へ(子供である娘に故郷に帰るなら清川村ではなく清川村に近い別府にして、と懇願されたので)拠点を移し、今では月に3〜4回清川の畑通いをしている。 夕食後の二次会では一堂の会食以上に話が弾み、久しぶりの帰省に合わせて故郷のあり様とお墓参りをして帰るなど、次は「77歳の喜寿」で皆に会えるかな?それとも・・・と話を弾ませながら、最初に世話人から聞いた「還暦祝い」依頼5名の方が他界した話を思い出しながら、次の同窓会にさんかできるかなあ〜と。 世話をしていただいた皆さん本当にありがとうございます。大変でしょうが是非75歳、または喜寿である77歳の時皆さんとお会い出来るようお願いします。ありがとうございました。 (注)清川村の人口と西小学校の生徒数について、私が10歳ぐらいの時に聞いた数字ですので確信はありません。裏覚えの数字です。 |
古希を祝う事務局の挨拶 |
夕食の膳 少し後で追加 宴たけなわの様子 |
左の膳で右の男性が清川西小・中学校同窓会の責任者 二次会の席で |
二次会の席で |
記念撮影 前列右から二人目が私 |