神楽会館4月公演


 神楽会館4月公演は三重町の「すずかけ神楽社」と佐伯市蒲江の「竹野浦神楽保存会」の方々で、「すずかけ神楽社」は千歳町の「大木神楽社」の手ほどきを受けた三重高校神楽部のOBが集い神楽座として活動を始め結成されて、今年で5年目と言う若い神楽座で、団員は17名?との事ですが、団員の多くが女性で育児や家事に追われて現在9名で頑張っているとのこと、その9名も男性3人に女性6名、平均年齢25歳と他の神楽座から見れば若い世代として頑張っているとのこと。
 「竹野浦神楽保存会」の方は私が観賞し始めて初めての神楽保存会の方で、蒲江竹野浦天満社つきの佐伯系神楽で明治35年より伝授されていたが、戦争により一時途絶えたが、神社関係者や地元有志によって復興し、昭和49年に神楽保存会として改めて結成された。神楽の舞は岩戸神楽や浅草流のように激しい舞はないが、典雅で清楚による優雅な手振りによる舞は引き付けるものを持ち、また時には勇壮な激しい舞も持ち合わせている両面を持っているとのことことだが、演目数は少ないとのことでした。

 第一演目 すずかけ神楽社の「天瓊矛」(あまのぬぼこ) 天地が初めて出来たころ、人間が住む土地はまだ若くして水母(くらげ)のように漂っていたので、天つ神々は伊邪那岐命と伊邪那美命に高天原にある玉飾りのついた天瓊矛を与えて水母のように漂う国を固めよと命じ、二柱の神は天の浮橋から天瓊矛を大海原にの中に押し入れて塩をゆっくりかきまぜ、天瓊矛を引き上げると矛の先から滴り落ちる塩が積もり重なって島が出来たので、この島を自凝島(おのころじま)と名付けられた。現在の淡路島で現在も(おのころじま)の地名があるとのことでした。



伊邪那岐命の登場
伊邪那美命の登場



伊邪那岐命
伊邪那美命
これから塩をかき混ぜる仕草が続く



二柱の神がお互いに離れたり近づいたりの単調な舞が続く



 第二演目 竹野浦神楽の「幣舞(ひいまい)」 神楽舞の祭りで一番最初に舞う神楽で、神を神庭(こうにわ)にお迎えし、周囲を祓い清める舞で、無病息災、家内安全を祈願する舞です。
 この舞を今年中学一年生になった子供二人が息の合ったテンポで舞終えた。
最後クライマックスでは少し激しい舞になる



幕が開くと片ひだで待っていた
二人並んで舞の挨拶を仕草でする
互いに顔を見ながら舞い始める



息の合った舞が続く
舞終える


 第三演目 すずかけ神楽の「太平楽」 天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)は多くの友を引き連れて筑紫の日向のくじふる嶽に無事に降臨を果たし、一行の先頭に立った天忍日命(あめのおしひのみこと)、天津久米命(あまつくめのみこと)、天石門別神(あめのいわとわけのかみ)は降臨の無事を喜び祝い泰平の舞を舞う。
 普段舞は4人で舞っているが、なぜか今回は3人で舞を納めた。

神楽の司会者からインタビューを受ける2人
天忍日命の登場



二人の命と一神が揃う
激しさと優しさを織り交ぜた単調な舞が最後まで続く。三人とも20代の女性です。



 第四演目 竹野浦神楽の「綱切舞」 今回の綱きり舞は、いつもの綱きりとは違って、縦横に張り巡らされた綱を、着面した舞手が綱を斬って行くと言う舞で、張り巡らされた綱はさらしで、このさらしを人々の災難や魔性に見立て、汚れを払い除き、禍を消滅させる所願成就の舞だが、一説では綱を八岐大蛇に見立て、須佐之男命が綱を切って大蛇を退治する場面を表した舞とも伝えられている。
 舞自体は単調で、登場人物も一人と静かな舞でした。
手足の振りが決まっている
引き上げる時の舞は男性の激しさに劣らない素晴しい舞でした。



幕が開くと片ひだで舞手が待っていた
文字を切るような長い舞が続く



張り巡らされた綱を確かめる仕草が続く



真剣と手で綱の感触を確かめる
綱を一つづつ舞いながら斬って行く
最後の一本を切り丸めていく



竹野浦神楽保存会も団員が少なく、優雅な舞を得意として、佐伯市内を始め近隣の町へ出向き舞を伝播しているとのこと。説明のように第二演目と第四演目は神楽の優しさを醸し出すような舞でした。




丸めた綱を切って神に収める




切り終えたことを告げる仕草