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おこじょ山の会


                  悲劇の
感状山城


本丸跡と思われる場所から見た山並み


 まず感状山城登山を記する前に、なぜ感状山と名が付けられたのか不思議に思い、相生史記で調べてみると、次のようなことが記されていました。
 感状山城は赤松則村円心の城山で、白旗城を中心にした第二の山城で、円心の息子赤松則祐の城とされてるが、円心のひ孫満祐が、時の将軍足利義則と対立して足利義則を殺害して、志方城山に戻ったところを幕府軍に討たれ、一旦は赤松氏は滅ぶが、後醍醐天皇の命を受けて九州に下った足利尊氏氏を討つため新田義貞軍を、赤松が当時瓜生城と呼ばれてた感状山に篭って、新田軍を迎え撃ち、その進軍を阻んだため尊氏から、その礼として感謝状を貰い受けたところから、感状山城と名が付けられたと記されている。
 瓜生城の名前は瓜生の村に築城されたことから名が付けられ、その後感状山城となったが、感状山城が落城するとき、美しい姫が城を抜け出し、麓の瓜生の民家に逃げ込み育てられて以後、瓜生の里出身者には美人が多く、瓜実顔の美人顔との名はここから名が付けられたのではないかとも云われてる。
 
     

登山口に設置された案内版

 私たちが感状山城に登った登り口は羅漢の里登山口として、一般的なコースで登山口から整備された登山道がどこまで続くのかと思える九十九折れの階段が続き、尾根に出たところから大石・小石の混じった山道の変わり、一際大きな大岩が現れた広場に出ると展望が開け、そこは見張り場所として使われた物見岩と記されている。
 
 
         

        登山口の七輪塔                    九十九折れに続く長い階段

 物見岩から三の曲輪・二の曲輪・一の曲輪とと続き、一の曲輪と記された広場の中央に「史跡相生市感状山城跡」と記された標柱があり、本丸跡と記された標柱が無かったので、多分ここが本丸跡ではなかったかと思われる。

  

          物見岩の岩場                     一曲輪の史跡標柱、本丸跡と思われる

 下山後羅漢さん見学にと思っていたが、感状山城の山頂でゆっくり展望を楽しんでいたため温泉に行く時間が無くなったため、羅漢さんは近くの山に来たとき、次回にまわすことにして温泉へと向かう。



下山後、瓜生集落から感状山城を見る

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