恭哉6年生小学校最後の夏休み
 天草五島歴史散策ドライブ




 孫の恭哉が夏休みを利用して豊中市から親子で帰省して、親と弟の洸聖が帰ったあと恭哉一人が残り、夏休みの思い出にと歴史に名を残した天草四郎時貞の生誕の地、熊本県天草に行って少しでも歴史に関心を持てたらと、別府から天草五島一周に出かけてきました。
 小学校6年生では徳川幕府がキリシタン弾圧を行ったなどの歴史的なことは習ってないようで、夏休みの自由研究で黒田官兵衛がキリシタン大名の大友宗麟と別府石垣原の戦いで勝利し、徳川に関ヶ原で勝利に導いたことを話し、恭哉の自由研究でキリシタンと言うものを少しでも記憶に残った後での島原行きで少しでも役に立ったかなとおじいちゃんの勝手な思い。
  

 
 天草四郎メモリアルホール
 
              
 メモリアルホール公園に設置されている天草四郎銅像と平和の鐘

 別府から島原5島一周は島原の崎津まで行くだけで片道7時間の道のり、別府を6時に出発して島原五橋の一つ天門橋の最初の橋を渡ると大矢野島で、そこに天草四郎のメモリアルホールがあり、そのホールに立ち寄り、館内の係員に天草に来たら是非立ち寄ってほしいと言う個所があったら教えててほしいと言うと、小さな島々が一望できる高舞登山展望台と千巌山公園の展望台と天草下島にある崎津教会を紹介してくれた。
 係員に礼を述べてまずは高舞登山展望台へ、展望台からの眺めは小さな島々と水族館や五橋めぐりの遊覧船が見渡せた。
 

 パノラマ撮影にずれが生じたのでパノラマ写真を引っ付けたが、高舞展望台から見た風景はこんな感じです
展望台から見たパールセンターの天草五橋めぐりの遊覧船乗り場

 次に千巌山公園へと車を走らせ、駐車場に車を止めて展望台の案内図を見ると、千巌山山頂までの遊歩道があり、展望台はその山頂になっている、山頂までの指標には登山口から290mの距離で標高は162mと記されている。
 登山道は階段とコンクリートによって誰もが登頂できるように整備されている、登山口から5分ほど登り尾根に出ると大岩が至る所に現れ、展望も開け、すごい所やな〜と恭哉と話している間に千巌山山頂に着く、山頂には三等三角点の標石が埋め込まれ360度の展望が開けている。
 山頂を後に下り始めると恭哉が頭痛を訴え始めたので、駐車場から国道に出た所で薬局はと探していると大型店のドラッグストアを見つけ頭痛薬を買い求め頭痛薬を飲ませる。
 
 
 千巌山展望台から見た大矢野島方面右奥にかすかに見える山々は島原半島
       
             千巌山登山口                        尾根道              岩の階段を登る

    
大岩が続く登山道
 
 
大岩が続くが展望の良い登山道
 
 
 千巌山山頂 三等三角点の標石

 頭痛薬を飲んだ恭哉はすぐさま眠りに陥ったので、メモリアル案内所で頂いた天草観光マップを便りに天草下島へ行く途中、道の駅で遅い昼食をと恭哉を誘うが食べたくないと言うので皆な我慢して崎津教会を目指す。
 下島へ渡ったあたりで恭哉が目を覚まし、お腹が空いたと言うのでコンビニでおにぎりを買い求め車を走りさせながら車中でおにぎりをほおばる、崎津教会を見学したあと教会横の観光案内所で、またも是非立ち寄ってはと思う個所があれば教えてほしいと言いい、そのあと天草四郎が立てこもって最後を遂げた城跡は何処にあるのかと聞くと、熊本方面へ伸びている国道389号線から途中左折した富岡町の富岡城址がそうだと言う。
  お礼を述べて大江教会へと車を走らせ、教会を見学したあと下島の西海岸を富岡城へと北上する、海岸線から島原半島の普賢岳(1359m)が山頂を雲に隠し、その東側にある七面山(819m)と眉山の山々が西日のシルエットを見せ、天草灘の海岸線美見せてくれる。
 

                    
        崎津教会             大江教会 キリスト教解禁後一番早く建てられた教会   ルドヴイコガルニエ塔
        
 
                            
          ルドヴイコガルニエ神父像          聖母マリア像(小さな穴から湧き出る泉が不思議な力を持つと云われる)
 
 
 富岡城は大きな城跡で、特に石垣の美しさに目を奪われる、城跡の本丸跡はビジターセンターになっており、二の丸跡は有料資料館になっている、資料館に入ってゆっくりと歴史を恭哉に見せてやりたかったが、時計を見ると4時を回っている、ここから別府まで約6時間の道のりだ。

 
 富岡町の国道から城へ向かう途中から見た富岡城跡の全景
 
    
 富岡城跡の石垣 修復されたあとが伺えられる
 
    
          本丸跡への城門                         天草の恩人          日本の恩人と記された像

                           
 幕末維新の海軍養成云々と記されていたが、説明文をはっきり読む時間が無かった
 
 富岡城から国道へと戻り、時間が早ければイルカウオッチングも楽しめたのだが、遅くても22時半ごろには帰りつきたいと思い、ただひたすら別府へと車を走らせ、途中のコンビニで夕食を買い求め、またも車中で夕食を取りながら21時58分に我が家の駐車場に、今回のようにドライブの長旅は恭哉も初めてらしいが、明日豊中に帰ることを考えてか、別府を去る寂しさから夜遅くまでじいちゃん遊ぼうと相手をさせられた。
 翌日、母に何時ごろ帰りついたら良いかと聞き、何時でも良いが出来たら18時ごろに蛍池まで帰ってきてくれると嬉しいとの母の言葉に、ネットで調べると13時20分発のソニックで豊中へと帰って行った。
 私が尼崎に居る間、何度となく別府までの行き来を教えて来たので、小学校4年生の時から一人で蛍池と別府を行き来することが出来るようになった頼もしい孫です。