井上昌三さんを偲ぶ会


井上昌三さん


司会の佐藤洋樹さんが開会の挨拶

 私の職場の先輩であり、労働運動の先輩であると同時に、日本共産党の仲間として長きにわたってご指導をいただいた井上昌三さんが二年前に亡くなり、早くから井上昌三さんを偲ぶ会の開催が告げられていたが、コロナ感染症拡大のため行動が制限され、コロナ感染7波のなか、制限が緩和されたため遅まきながら偲ぶ会を開催するとの通知を頂き、感染対策をしっかりして参加してまいりました。『偲ぶ会』で挨拶された方々の挨拶は下記の通りです。挨拶されて抜けている方に対しては申し訳なく思います。


 寺北桂一さんは『偲ぶ会』の主催者挨拶を述べるなかで、井上さんと一番身近にいた一人として井上さんの活動を紹介しました。紹介の中で井上さんが書かれた書籍の一つを紹介しながら、井上さんが述べた言葉として「私は学校で文学論を学んでないので、文学とは判らないが、文学が私の生きる道に大きな影響を与えた」と述べ、それが労組の機関紙発行に生きたと言われた、と挨拶されました。


 徳山勝規さんは現役阪急労組の執行委員長として主弔辞を述べられ、その中で井上さんとの面識はないが井上さんが組合活動をされてきたことは組合誌からも学ぶところは大きく、特に平和運動の取り組みは素晴らしいものがあり、本日の『偲ぶ会』に招かれたことを大変うれしく思うと同時に、井上さんからしっかりせんかと怒られないように頑張っていきたいと思いますと抱負を述べました。


 脇寺敏男さんは献杯の音頭をとる前に井上さんとの思い出を語りました。思い出の中で井上さんから色々な事を学び、その中で特に印象に残っていることは、会議とうで話すときは必ず文章を作成してから話すようにと言われたことです。そのことは今でも実行しています。井上さんありがとう。



宮下さんの挨拶

  宮下の言葉 宮下さんが職場支部長の時、職場オルグでの井上さんとの出会いエピソードを話しながら、総連委員長になった時、連合の会合で他の団体から言われた言葉の紹介で「私鉄さんはいつまで『化石』みたいな運動を続けるのですか」と言われたことがありますと述べ、その返事として、しかし『化石』は歴史の中で唯一事実として残ります。私鉄は70年間職種の違い、大手・中小の違い、都市・地方の違いなどを乗り越えて大同団結してきました。そのことだけでも『化石』に近いのです。『化石』と呼ばれることに誇りを持ち、私鉄の良さである「決めたことは必ず守る」の伝統で平和な日本を守るため「平和運動」という『化石』を残してください。と伝えたとのことです。名言ですね!!


 吉田省三さんは井上さんから同じ「しょうぞう」ということで可愛がっていただき、後に私鉄「連帯する会」の代表を引き受けるとき、代表としての心構えなどをご指導いただき有難うございました。



中田進さんの挨拶

 
 中田進さんは井上さんと勤労協仲間としての井上さんの活躍を話されました。その中で現役労働者としての職場労働学校の講師としていくときはその職場の実態を聞き、話す内容を文章にして出かけて行き、講師だけではなく文学者としてもよく本を読み、特に小林多喜二精通していた。また阪急労組の今の姿は井上さんの活動を引き継いでいるように見えるとユーモアたっぷり交えて有難うございましたと挨拶されました。


 大越博明さんは井上さんが労組の教宣部長をしているとき教宣学校で学び、その学びが後の箕面市会議員になったとき大いに役立ち、また井上さんと共に文学をも学んだことは今でも生きています。ありがとうございました。


 小林敏男さんは井上さんとの出会いを語るなかで、井上さんから事務局の席が空いたから手伝うように言われ、仕方なく手伝ううち私鉄「連帯する会」の代表までする羽目になり、それが井上さんの助言であったとのことで、井上さんが在籍していた阪急労組と阪急後援会に敬意を称しますと挨拶しました。


 阪急バスの坂本さんはバス部会で井上さんに色々な助言をいただき、その助言を実行するにあたり「坂本さんよくやったね」とねぎらいの言葉をいただいたことなどを紹介しながらお礼の言葉をのべました。


    
        偲ぶ会の開会を告げる                               井上さんの遺影と私 右が佐藤洋樹さん