移り行く清川村 我が生まれ故郷 戦中祖父が疎開先として移り住んだ清川村も、私のように都会へと生活の糧を求め、若者の流出に歯 止めが掛からず過疎化が進み、今は小泉政権が進める町村合併が清川村にも押し寄せ、2005年3月 には大野市が誕生し、清川村は清川町に地名が変わると伝えられ、私の生まれ故郷も時代の波に飲み 込まれ、変化が始まっています。 大阪に職を求め、多くの方々にお国は(故郷のこと)と聞かれ、私は大分県清川村と胸を張ってお国自 慢をして来ましたが、それも言えなくなり、村と云う名がなくなる事は都会に出ている者にとって寂しい限り です。 草紅葉と車が止まっている場所および右の道路一部が生家跡 私が生まれ育った家屋敷の後、数十年前最後まで居た長兄も別府市に移り住み廃家となり、村道への 影響を考え、倒壊した後、今は集落の防火用水と集落の水道水として生まれ変わり、今度は4、5m幅 の村道に変わろうとしています。 私が小学校2年生頃の時山谷の田圃を購入して、37年前父が私と同居する時山林として杉を植え、 04年の台風13号によって3分の1が倒木した杉と村道拡張によって倒木される杉林。
台風によって倒れた杉の木 道路拡張によって収用される杉 集落の公民館と御岳山からミツバツツジを採取して植樹した7名の中学卒業祈念樹、一株のミツバツ ツジが大きく株を張り、村人の手によってきれいに手入れされ茶褐色に色づいていた。
公民館と記念樹 長閑な田園風景 稲の刈り取りが終わった田圃と集落、私の居る時は曲がりくねった棚田も、今は機械が入れるように整 地されている。 私が高校卒業して大阪に出るまで、釣りに川泳ぎに慣れ親しんだ入瀬川(にゅうぜがわ)、祖母山、 傾山を源流に清く澄みきった水が涸れることなく流れているが、戦後まで傾山の麓の尾平に銅採掘鉱山 が営業しており、カドニュウムの垂れ流しが行われていた為、台風や大雨の時は川魚が死滅するなど、 清流を悪夢の川にしたこともありましたが、今は多くの魚を見ることが出来ます。久しぶりに見た川はあ るべき大岩が無くなり様相が大きく変わっていました。
馴れ親しんだ入瀬川 清川村教育委員会指定の灯篭と榎木 集落の中央部に安置された塔楼は小学生時代の良き遊び場所で、写真には幹しか写っていません が、大きな榎の枝でブランコを作って貰い楽しんだ記憶が甦って来ます。いま塔楼は村教育委員会の 保存史跡として守られています。
今は面影だけの銀杏の木(左前) 集落の守り神して祭られている建男社の鳥居と本屋敷、屋敷の前には大人が4人で抱きかかえても余 りある大きなイチョウの木があり、木の中央部は空洞化しており、かくれんぼなどで遊んだイチョウの木 も、今は落雷により写真に写っている大きさになっていました。 私が生まれた当時の集落戸数28で約140名近くの人口を有し、秋の豊作を祝う宮祭りは鳥居から 社まで老若男女で賑わったことが昨日のように思い起こされます。 宮社は集落にとって無くてはならない存在で、大人も子供も行事に遊び場として大きな存在感を 持っていました。 今日では人口も減少し、平均年齢も65歳と言う事で宮社を利用することはないようで、ひっそりと静 まりかえっています。 眞名井 一正 |